レーマーシュタット/フランクフルト
1920年代住宅団地
もう80年も前に建てられた集合住宅がいまでも好評で、引越しがでると受け継ぎはプレミヤ付きという。住宅は小さいが総地下で2階建て、190平米の庭付きである。この庭は戦中戦後の食糧難時代は小さな菜園とか家畜飼育場として随分活躍したという。そして今は花や芝生がすばらしい住環境を提供している。
わが国の同潤会アパート、ちかごろ取り壊された最後の集合住宅、が同時代である。
いま「持続性ある都市」「長持ちする住宅」がさかんにいわれている。ここでフランクフルトレーマーシュタット団地を紹介したい。
建設局長エルンスト マイとフランクフルト
フランクフルトの1920年代、建設局長エルンスト マイによる住宅建設での新しい動きは世界の注目をあびることになる。
1920年代という時代は、ドイツが主役となった第1次大戦の終戦が1918年であり、また1920年にはじまった経済恐慌が1929年に大恐慌となってピークをむかえている。
建築界にとって、一方では公共資金の乏しい中で、大都市では大規模な住宅難対策に迫られ、もう一方では新しい建築様式の模索である。それまで一世を風靡していたビーダ‐マイヤーとかアールヌーボーなど装飾のある様式はもはや通用しなくなり、合理性、機能美の近代建築に変わりつつある時代である。この動きのアカデミー機関、ワイマールのバウハウス設立は1919年である。
フランクフルトでは都市計画局長のエルンスト マイは多くの優れた建築家をフランクフルトに招き、マイを中心に「新しい建設 Neues Bauen」のテーマのもとに、積極的な建設活動がはじめられる。
マイの新しい時代の住宅建設の目標は、市民のための、緑の環境の中の住宅であり、集団社会の中で個性の発展が可能な環境をつくることである。
住宅は、充分な光と空気と眺望が無ければならない。それには地価の安い郊外に低密度な住宅地をつくることであり、それは都心と郊外の分離が市内の交通の緩和にもつながるという理論である。
住宅建設では経済的見地から、工場生産、プレハブ工法も取り入れられた。限られた費用でなるベく多くの住宅を建設するため、小さく簡素な平面プランで、非常に長い住棟が作られた。住棟は、両側に日があたるよう東西方向に配置されている。
フランクフルトでとりあげられた新しい住宅タイプは平屋根である。
団地には集中洗濯場(洗濯機や乾燥機がおかれ)、集中暖房、幼稚園、保育園などの共同施設が設備され、公共の庭や敷地の利用など集団社会生活が意図されている。
こういった団地は、市の郊外につくられ、路面電車など公共輸送機関で都心と結ばれている。
レーマーシュタット団地
その住宅団地の1つレーマーシュタット団地はフランクフルトの北西部ほぼ9キロのヘダーンハイム地区にある。以前ローマ時代の村落があったことから、レーマーシュタット、ローマの都市、から由来している。
図:レーマーシュタット配置図 |
レーマーシュタット団地は計画住宅戸数1220戸、集合住宅や住宅団地の領域では当時最大規模であるヘダーンハイム団地の第2期分である。
総面積26ヘクタール、地域の幅が340メートル、長さはほぼ1300メートルがニダ川沿いの南面に位置している。
住棟は3、4階建ての住宅ブロックと2階建ての長屋形式からなり、1棟が60から80メートルと長いことと、2階建てには大きな庭があることが特徴である。
この住宅に付随した庭は団地計画の主要部分の1つであり、両サイドの2つの庭の中央には狭い歩道がつけられ、すばらしい住宅環境がつくられている。
住宅は小さいながら、居間と寝室に1つの子供部屋があり、屋根裏階には予備室があり、性別に分けられた子供部屋が取れるようになっている。
建設年:1927年から1929年
住宅概要:全581戸、長屋形式2階建て、3部屋から4.5部屋、居住面積ネット75平米 から82平米、庭面積ほぼ190平米。
その他は集合住宅3階建て、大多数は居住面積ネット65平米3部屋住宅、
残りは56平米の部屋住宅
構造:煉瓦つくり、平屋根で木構造
共同施設:小学校、教会、商店はハドリアン通りに集められている。
施工主体:小住宅のための株式会社
ネット住宅密度: 56戸/ヘクタールあたり(ネット住宅地域)
総住宅密度: 37戸/ヘクタールあたり(総住宅地域)
「フランクフルトの厨房」
図 : フランクフルトの厨房 |
20年代、フランクフルトの住宅団地と同時に世界に有名になった建築設計に「フランクフルトの厨房」がある。これは毎日の家事の軽減を住宅設計から取り組んだもので、設計はマーガレーテ シュッテ.リホッツキーである。
ウイーンの人シュッテ.リホッツキーは第1次世界大戦後、マイ建設局長に招聘されフランクフルトに来る。
彼女の設計になる「フランクフルトの厨房」は、幅1.9メートル、長さ3.4メートルの細長い部屋で、長いほうには棚や用具が並び、なるべく少ない動作が考えられている。厨房の一方には大きな窓があり、また天井からの電灯は上下にスライドして明かりが調整できる。
コンロの上に蒸気フード、こむぎ粉や砂糖などのたくさんの引き出し、冷蔵庫代わりの食料箱など、すべて備えつきで設備された。ここで取りつけられた折り畳み式のアイロン台などは現在でも賃貸住宅の備品希望リストにのるものであろう。
ここでは食事室は考えられていない。隣の居間が同時に食事室でもある。区切りに使われたガラスの戸は隣の部屋で遊ぶ子供を見ることが出来る。
1929年に行なわれた世界建築家会議(CIAM)がフランクフルトで行なわれ、その折、展示されたこの「フランクフルトの厨房」が注目され世界に有名になった。
海外逃亡した主導者達
マイがフランクフルトで実際に活躍したのは意外に短い。彼がフランクフルトにいたのは1925年から1930年のほぼ5年間で、その間に1万戸余の住宅を建設している。
また新しい建設法令を1931年に策定し、ここではじめて「市街地」と「将来建設予定地」と「郊外」が区別されるようになった。
マイは、ナチスから逃れて、1930年ソビエトに行き、また同輩のクラーマ−のアメリカ行きによってフランクフルトの「新しい団地作り」は事実上終止した。
また、一緒に活躍した「フランクフルトの厨房」のシュッテ.リホッツキー女史もこのときマイに付いてモスクワに行っているが、しばらくして帰り、反ファッシスム運動で捕らえられ15年の刑をうけた。このように、当時の新しい動きには革新的思想者が多く、多分に社会主義的な要素が含まれていた。
バウハウスも同じ時期、同じ運命をたどっている。
レーマーシュタット団地の現況
地域全体が文化財保護で、現在も非常によく保存されている。
ここでは文化財保護は建物だけではなく、庭の垣根などにも規制がかけられ、絶えず伸びたり枯れたりする生垣の幅や高さまで統一し、ほぼ80年経た今日まで、よく手入れして残されている。
住宅の所有者はフランクフルト市であり、したがって賃貸住宅である。
c 春日井 道彦